大椿ゆうこインタビュー 第1回「差別問題との出会い」

大椿ゆうこ インタビュー

第1回 差別問題との出会い

人の尊厳を奪う差別を許さない。
今こそ、人の世に熱を。

反差別の原点は部落差別の体験

—プロフィールに「好きな言葉」として、水平社宣言(注1)の「人の世に熱あれ、人間じんかんに光あれ」を挙げられています。この言葉を選んだのはなぜですか?

 子どもの頃、身内で部落差別を体験しました。いとこのお姉ちゃんが被差別部落出身の男性と駆け落ちをして結婚したんです。その駆け落ちの前後に居合わせてたんですよね。私は12歳、小学6年生でした。

 当時は毎年、年末年始には親戚の家に集まって過ごしていました。12月30日、20代だったいとこのお姉ちゃんが、私ともう1人のいとこを「喫茶店に行かない?」と誘いました。そして3人でお姉ちゃんの車に乗って出かけたんです。

大椿ゆうこ 喫茶店に着くとお姉ちゃんは「2人はここに座って」と私たちを別の席に座らせ、パフェか何かを頼んでくれました。そして彼女は私たちとは違う席に座り、後から来た男の人と話をしてたんです。

 しばらくして店を出る時、お姉ちゃんは私たちの席に来て「このことは誰にも言わないでね」とだけ言いました。「何でだろう?」と不思議に思いましたが、言われた通り黙っていたんです。

 翌日、お姉ちゃんは「スキーに行ってくる」と言って、1人で出かけて行きました。実際にスキーが好きだったので、誰も不審に思わず「じゃあねー」と見送りました。それきり、お姉ちゃんは帰ってこなかった。年明けに駆け落ちしたとわかり、親戚中が大騒ぎになったんです。

 お姉ちゃんが被差別部落出身の男性とつきあっていることは、親戚中が知っていました。うちの両親はそのことについて特に何も口にしませんでしたが、伯母の1人が猛反対していました。

 雨の降る日だったと聞いています。お姉ちゃんが仕事から帰ってくるのを待ち構えていた伯母は、お姉ちゃんを乗っていた車から引きずり降ろして「別れろ」と言いながら殴ったり蹴ったりしたそうです。私はその場にいなかったけど、殺されるかというぐらいの暴力だったみたい。うちの母がお姉ちゃんの母親である伯母に「なんで警察を呼ばなかったの!」と怒っていたのを覚えてます。

正しい知識が
差別を見抜く力を養ってくれた

 お姉ちゃんが駆け落ちしたことがわかってから、毎晩、いろんな親戚から電話がかかってきて。子ども心に「何か尋常じゃないことが起きているんだな」と感じました。お姉ちゃんに暴力をふるった伯母は、被差別部落出身の彼について「”あの人たちは血の色が違う”などと言っていた」と母たちが話していたのを覚えています。

 その時、私は「部落差別はもう歴史のなかの出来事だと思っていたけど、今も存在してるんだ」「しかも、私の親戚がその差別をおこなっているのか」という衝撃を受け、同時に「大人は賢いと思っていたのに、そんな間違ったことを言うんだ」と思いました。

 というのも、私は小学4年生の時に授業で部落差別について勉強していたから。朗読会に向けて先生が選んだのは、「ベロだしチョンマ」(斎藤隆介作)というお話でした。不作で年貢を納められない村人が将軍様に直訴に行くのですが、その共謀をしたということで主人公のチョンマも処刑されるという悲しいお話です。

 先生は、このお話を題材にして、部落差別に関する授業を行いました。「最後に、チョンマが処刑される。この、処刑する仕事をさせられていたのが、『穢多・非人』と呼ばれていた人たちだよ」と話し、彼らに職業選択の自由がなかったこと、その職業であるがゆえに、さらに人々から差別されてきたことなど話してくれてました。6年生の時も同じ先生が担任で、部落差別と憲法25条について熱心に教えてくれた先生でした。

 だから私には伯母の言動がひどい間違いで、差別だということがわかりました。「おばさんが言ってることは間違ってると思うよ」と母に言ったのも覚えています。母は「そうだね」と言い、私の言葉を否定せず、受け止めていました。母も「好き合っている2人を暴力で別れさせようとするのは間違っている」という考えでした。

水平社宣言を自分の軸として

 数ヶ月後、お姉ちゃんたちは結婚式を挙げて2人で暮らし始めました。結婚後も、私の家にはよく顔を見せに来ていたし、時には彼と一緒に来ることもありました。帰り際に、母親がたくさんの野菜を持たせていたことを思い出します。
 しかし親戚が集まる場には、長い間、顔を出すことはありませんでした。

 祖母が亡くなった時、親戚中が集まる葬式の場にお姉ちゃんがいましたが、葬儀を終えた時には姿を消していました。さらに数年後、ひどい差別をした伯母が彼女の子どもたちにお年玉をあげている姿を見た時には何とも言えない気持ちになりました。「こうなるまでにどうして15年以上の歳月が必要だったんだろう」と、深い悲しみと怒りを覚えました。

大椿ゆうこ 12歳で部落差別を目の当たりにしたけど、その直前に部落問題を学んでいたので、目の前で起こっていることが何かを理解できました。大人でも間違った判断をすることがあるんだいうことも知りました。あの経験が、私が差別と向き合う時の原点になっています。

 その後も、大学時代に出会った被差別部落出身の先輩が就職差別に遭ったり、親友が結婚差別を受け、最終的に恋人と別れるという決断を強いられる姿も見てきました。その度に、水平社宣言の一節を思い出してきました。マイノリティの人たちと関わったり、いろんな差別について考えたりする時、水平社宣言は自分のなかのひとつの軸としてあります。

注1:^ 水平社宣言

1922年、被差別部落の解放を目指す全国水平社の創立大会で読み上げられた宣言文。日本最初の人権宣言といわれている。

聞き手:社納葉子(しゃのう ようこ)
フリーライター。結婚、妊娠出産、離婚を通じて女性の「生きづらさ」「分断」を身を以て知る。子どもに対する自分の「加害性」も。循環して互いの加害を支え合う構造を柔らかい思考で変えられないかと実験中。飲み歩きと観劇が大好き。
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