3月30日(土) 神奈川県内基地視察(相模原・座間・厚木・横浜ND)

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3月30日・31日は、神奈川県内にある米軍・自衛隊の施設を視察しました。新幹線で頻繁に大阪と東京を行き来するものの、その間にある神奈川県に立ち寄る機会はほとんどありませんでした。神奈川県は沖縄県・青森県に次いで多くの米軍専用施設を抱えています(1473万㎡、日本全国の米軍専用施設の5.6%)。しかし、神奈川県内の基地の視察をしたことはありませんでした。

地元で基地の様子を長年に渡り監視し、平和運動を担って来た党員や市民のみなさんの協力により、2日間充実した視察をすることが出来ました。その内容をご報告します。

相模総合補給廠(在日米陸軍)

朝9時半、JR横浜線の相模原駅で元相模原市議の金子豊貴男さん・「相模補給廠監視団」の沢田政司さんと待ち合わせ。そこから駅ビル屋上の駐車場に上り、駅の北側を眺めると倉庫や家屋が密集している区画が一望できました。これが在日米陸軍・相模総合補給廠。旧日本陸軍相模陸軍造兵廠だったものを米軍が接収したもので、現在は在日米陸軍基地管理本部の管理下で物資保管・修理などの兵站業務を行っています。また、米軍再編でキャンプ座間に第一軍団の新司令部が設置されたのに伴い、それを支える「任務指揮訓練センター」が相模総合補給廠に作られ、2011年に運用開始されました。

後で詳述するように、ベトナム戦争中は破損した戦車を修理する場として使われていましたが、現在戦車修理工場は使われておらず、台風の被害を受け、廃屋になったまま放置されています。今は「巨大な物置」としてスクラップや有害廃棄物を保管しており、かつては全国の米軍基地から有害廃棄物が持ち込まれていたことから「困ったときの補給廠」との呼び名もあります。

2006年、米軍再編合意により補給廠の南西隅・JR相模原駅前の約15ヘクタールの土地と南北・東西の道路用地が返還されました。返還先は財務省なので返還地は国有地ですが、相模原市がお金を出して除草等の管理を行うこととなっています。とはいえ返還地には米軍住宅や公園が残されたままで草が生い茂っています。地元からは「火災が発生した場合、隣接する病院・相模原駅・JR横浜線にも影響が及ぶ恐れがある」と懸念の声が上がっています。

返還地の北側、西側野積場の一部35ヘクタールは、米軍・相模原市が共同使用する土地となっており、そのうち10ヘクタールは「レクリエーションゾーン」として市民が利用できるようになっています。このように市が広範な管理権を持つことは全国でも珍しいとのことですが、あくまで土地は米軍が所有し、その上に造る建物も有事の際に撤去できるものに限定されているそうです。

一通り上空からの説明を受けた後は、金子さんの車に乗って補給廠を一周しました。レクリエーションゾーン前の「東西道路」の端点を左折し、相模原駅から続く「南北道路」を走り抜けると、道は一度境川(相模原市と町田市の間を流れる川)の川辺に降ります。車一台がぎりぎり通れる細い道で危険なため、基地外周に市民が使える道路を敷設して欲しいとの要望が出ています。補給廠と境川の間にも住宅がぎっしりあり、新宅も少なくありません。駅からも遠くなく、比較的利便性の高い土地のようですが、基地のフェンスの真裏に住宅街が形成されているのは不思議な光景です。

境川沿いの道路を終えると「第3ゲート(東門)」へ。このゲートは救急車等の日本の緊急車両も通過し、「第1ゲート正門(西門)」まで補給廠内の道路を通り抜けられるようになっています。緊急車両の基地内通過は、まだ南北道路の返還が決まっていなかった頃、補給廠の北側(JR横浜線の反対側)の地域から相模原駅周辺にある病院にすぐ向かえるようにするため、市議時代の金子さんの尽力で実現したそうです。南北道路が出来た今でも、毎朝相模原市消防が米軍に電話し、ちゃんと連絡がつながるか確認しているとのことです。

そこから基地の外周道路を走ると、色とりどり・多種多様な倉庫・コンテナが目に入ります。それぞれ野戦病院を作る医療設備・燃料を輸送するパイプライン・武器・危険物・可燃物等々、保管しているものが違うのですが、金子さんは一つ一つつぶさに説明してくださいます。危険物・可燃物倉庫のドアには、収容物の危険性を記す標識が掛かっており、「監視団」の皆さんは日々チェックしているそうです。この日は「可燃性(赤)1・不安定性(黄)0・健康への危険度(青)0・特記事項なし」ということで、それほど危険なものが貯め置かれていた訳ではないようですが、過去には「監視団」が倉庫からPCBを運び出しているのを見つけたこともあったそうです。

一通り案内を受けてから、最後に「第1ゲート正門(西門)」へ。ここはベトナム戦争中の1972年、補給廠内で修理した戦車を米軍が横浜ノースドックまでトレーラー輸送をしていたのを止めるべく市民がテント村を作って「戦車闘争」を行った場所です。ちなみに駅ビル屋上の駐車場で補給廠の説明をして下さった「監視団」の沢田さんは、法政大の学生時代に戦車闘争に参加するため東京の実家から相模原に来られて以来50年、ずっと補給廠を監視し続けていらっしゃいます。沢田さんは、戦車闘争を伝える漫画冊子『西門であいましょう―戦車闘争からのメッセージ―』のモデルにもなっています。

週末だったこともあり、基地からの車両の出入り等もほとんどありませんでした。金子さんによれば、「有事」の可能性が騒がれる割には、普段から米軍にさほどの緊迫感はないそうです。補給廠最寄りの相模原駅は相模原市の玄関で、周辺には民家の他、病院や介護施設も集中しているため今は大きな反基地集会もしづらいようですが、これからもずっと「有事」が訪れないことを願うばかりです。

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