神奈川県内基地視察レポート後半です。前半はこちらをご覧下さい。
池子住宅地区及び海軍補助施設(在日米海軍)
朝10時に京急逗子線の神武寺駅に集合。構内踏切の反対側からは上り線のホームには米軍関係者専用改札があります。上り線ホームの裏にはJR横須賀線の逗子駅に続く「総合車両製作所専用線」がありますが、神武寺駅から逗子駅までの線路は米軍施設扱い。線路沿いには京急と在日米軍との境界を表示する標識も立っています。上り線ホームからは米国旗がはためくのも見えます。
駅から10分弱歩くと住宅地区に到着、元逗子市議の根本祥子さんが出迎えて下さいました。13歳の時から逗子市に住み、市議としても膨大な思いやり予算がつぎ込まれる米軍施設の問題を追及してこられた根本さん。情熱的な語り口で住宅地区内を案内して下さいました。
「池子住宅地区及び海軍補助施設」がある場所は、現在の逗子市・横浜市金沢区に広がる自然林「池子の森」でしたが、旧日本海軍が弾薬庫を作りました。その弾薬庫は連合軍が接収、在日米軍が引き継いでベトナム戦争時まで使用しました。1947年11月には弾薬庫で大規模な爆発事故が起き、日本人1人が死亡、7人が重軽傷を負い、多くの山林が焼け落ちました。ベトナム戦争後、弾薬庫が使われなくなると、弾薬庫跡地の全面返還が逗子市の市是になりました(詳しい歴史は神奈川新聞の記事をご参照下さい)。
しかし米国は弾薬庫跡地での家族住宅の建設を強く要望、日本政府もそれに応じ、住宅整備を進めようとします。それに対し、市民は1982年11月「池子米軍住宅建設に反対して自然と子どもを守る会」(守る会)を結成しました(逗子市の米軍住宅反対運動の歴史はこちら)。メンバーの多くは30代の主婦たちだったそうです。根本さんのお母さんは「守る会」の中心メンバーだったので、自宅が会議場所になることも多かったとのこと。米軍住宅建設容認に傾いた三島虎好市長のリコール運動の際は、「守る会」としてビラを全戸配布し、毎日ニュースで取り上げられるほど全県的な注目を集める運動を作られたそうです。そんな環境で育たれたからこそ、今の根本さんがあるのかもしれません。
住宅地区には高層・低層の住宅の他、スーパー・プール・テニスコート等様々な民生・娯楽施設や小学校等があります。どれも米軍の求めに応じ、数億・数十億を投じて作られていますが、全て日本政府からの「思いやり予算」で賄われ、際限がありません。地区内に小学校を新造する際は「横須賀海軍施設まで通学するのは負担だ」との理由付けがされましたが、根本さんは「特別支援学校の子どもたちにはバス通学を強いているじゃないか」と突っ込みを入れられていました。
2014年に日米合同委員会合意に基づき、逗子市と米海軍等が「返還を前提とした共同使用」を行う「池子の森自然公園」が整備されました。市民も公園内の運動施設を利用できるようになりましたが、米軍は無料で使えるのに市民には使用料が課される、テニスコートの一面は米軍関係者専用にキープされている、米軍のイベントのための利用が優先される等、「米軍優先」が前面に押し出されています。
住宅地区には約3000人(逗子市の人口は約5万7千人)が住んでいるとされていますが、最近は「米軍の運用に関わる」として正確な居住者を開示しなくなったそうです。しかし、下水道使用料の推移をみると(※米軍の光熱水費は「思いやり予算」から拠出するので、下水道事業を提供する逗子市が防衛省に請求する)入居者が減っていることが推測されるとのことです。米軍も「返還が前提」「施設は恒久化させない」と言い、入居者も減っているにもかかわらず施設の新造が続くのはおかしい、と根本さんはきっぱりおっしゃいました。
「池子はアメリカが東アジアで行う戦争準備の写し鏡」と根本さんは仰います。住宅地区に贅沢過ぎる施設を作るのも、いつ戦場に動員されるかわからない兵士とその家族を慰めるため。逗子市民の先祖代々の土地に、住民の自治を否定して米軍施設が居座り続ける池子の現状は、沖縄に強いられた不条理にも重なります。根本さんのような方が、「地元に軍隊はいらない」と声を上げ続けていらっしゃることの貴重さが実感されます。
「政治は怒り」との信条で米軍・日本政府を批判する根本さんの熱い案内に魅了され、あっという間に住宅地区を一回り。根本さんと別れ、京急に乗って横須賀に向かいました。