大椿ゆうこインタビュー 第2回「女性として」

大椿ゆうこ インタビュー

第2回 女性として

女を分断するものを断ちきり
つながる社会へ

実家や地元の文化に
生き方を左右される

—シングルかカップルか、子どもがいるかいないか、正規か非正規か。立場や状況の違いによって、女性たちが出会えない、つながりにくいという現状があると思います。大椿さん自身はどう感じていますか?

 私は岡山県のすごい田舎で生まれ育ちました。そのまま地元で暮らしている同級生も多くて。数年前に同窓会があって参加したら、地元で、20代前半に結婚した子が多かった。すでに離婚して再婚したという子もいるし、子どもが3人いる子も結構います。「私がやってないこと、全部やってるなー」みたいな気分になりました。

大椿ゆうこ
 高校卒業後、県内で就職・進学した同級生と、大学進学のために県外に出て、その後も自分で働いて暮らしていくという道を選択した自分とでは、暮らしぶりがあきらかに違うなぁと思います。自分があのまま地元で暮らしていたら、どんな人生だったかな?と時々考えます。窮屈だった気もする一方、聞き慣れた方言や昔から知っているご近所さんに囲まれ、自然豊かな場所で子育てするのも良かったなぁとも思います。

 「時代」も影響するでしょうが、どの地域のどんな文化のなかで生活するかということは、子どもをいつ、何人産むか、そもそも結婚するかしないかということに大きく影響すると感じます。都会に住んでいると私のような人がたくさんいて、「自分だけじゃない」と思えました。そもそも40過ぎまでシングルでいるということに強烈なプレッシャーを感じずに済んだのは、親元を離れ、都会で暮らしていたからこそなのかも。

 ちょうど大学を卒業する前にバブルが弾け、就職氷河期でした。なので私の周辺では、「仕事がないなら、うちへ帰ってきなさい」と親に言われて実家に戻った女の子たちが結構いました。でも私の親は「これから先は自分で働いて生きていきなさい」「田舎に帰ってきても仕事はない」と。もし「帰っておいで」と言う親だったら、違う人生だったでしょうね。

 大学卒業後はずっと非正規で働き、20代の頃は「子どもをもつ」なんてこと、ほぼ考えなかった。結婚に対してもリアリティがありませんでした。30歳を過ぎた頃から「子どもを育てたいな」と思い始めましが、同時に、「私の仕事はこれだ、私はこの仕事をした」と思えるような仕事をもちたいという気持ちも芽生えたんです。

大椿という名前で
生きていくと決意した理由

—「結婚したいと思ったことがない」というのは?

 私の名前、いい名前じゃないですか? 「大椿」という名字がすごく気に入ってるから、結婚によって変えるのはいやだなぁと高校生の頃から思っていました。それでもまだ当時は、結婚制度そのものに疑問を持っていた訳ではありません。結婚したら、やっぱり自分が名前を変えるんだろうな・・・とは思っていました。

 大学生の時、フェミニズムの授業を受けました。「結婚という個人と個人の問題を、なぜ役所に届け出ないといけないのか?」と言った先生は、事実婚をしていらっしゃいました。

大椿ゆうこ また同じ頃、同性愛者の人達と出会い、私たちが当たり前に持っている権利が、ある特定の人達には認められていないことに気付かされ、たとえ自分がその権利を使える立場にいたとしても、特定の人を排除する制度に、自分は乗りたくないなと思うようになりました。

 決定的だったのは、20代半ばの頃につきあっていた人との間に「結婚」という話が出た時。相手から「人が別姓を選択するのはいいけど、自分は長男だし、自分の名字を変えるのはいやだ」と言われたことです。「いやいや、変える必要全然ないですよ。あなたはあなたの名前のまま。私は私の名前のまま一緒に生きていきましょうって話なんですけど」と伝えましたが、「子どもが差別されてもいいの?」などと言われ、「差別する方が悪いだろ?」みたいなことを言い合って、結局上手くいきませんでしたね。最終的に別れた理由はそれだけじゃないけど、「私はどちらかの姓を選ばなければ認められない婚姻制度には乗らない。そういう議論を一からしなきゃいけない人とは付き合わない。大椿という名前で生きていく」と決めました。

それぞれの選択や事情を尊重し、
支え合いたい。
「女子力」は「団結力」

 そんなわけでそもそも結婚というものに疑問があったから、子どもをもつことにもなかなか気持ちが向かなかった。子どもをもつにしても、「絶対に自分の血をひいた、自分が産んだ子が欲しい」という願望も薄い。子どもは育ててみたいけど、自分の産んだ子じゃなくてもいいと思ってました。

 30代も半ばを迎えた頃、パートナーもいなかったので養子縁組を検討しました。でも日本で養子縁組することは簡単なことではありません。そもそも、シングルで、非正規労働者で、経済的な保障もない女が養子縁組できる制度にはなっていないんです。育てられる子どものことを考えれば当然かもしれませんが、「ここにも可能性はない」という現実を突きつけられました。だからやっぱり、子どもをもつには特定の誰かと子どもをつくるというのがもっとも無難なわけです。しかし、「一緒に子どもをもとう」という人に、妊娠しやすい年齢でタイミングよく出会うという風に、人生都合よくは進みませんね。

 私みたいな思いをして、40代を迎えた女性たちって結構いるんじゃないかと思うんですよね。「子どもをもちたい。でもいい人とめぐり会えないまま、産めない年齢に近づいてきた」と焦りと不安の中にいる人たち。子どものいる友達の前で、そんなことを言うのもしんどいし、「ことさら言うことでもないし」と遠慮して、自分ひとりで抱え込んでしまうような感じ。

 私は30代の頃が一番キツかったかな。「椿さんも、子ども早く産んだ方がいいよ」とか、「子どもいなくて楽だよね」なんて言われるとしんどくて、そのうち積極的に会わなくなったり。

 35歳ぐらいの時に労働組合に入って、自分の労働争議に取り組みました。それから4年ぐらいの歳月は「とにかく闘い抜かなきゃ」という思いだけで、子どもがどうとか考える気にはこれっぽちもなれなかった。一段落ついた時にはもう40歳手前になっていて。「あぁ、今から相手探して、妊娠するのは難しいかもな」って、現実を突きつけられました。44歳で外国人の連れ合いと結婚することになったのは想定外でしたが。

 そして45歳になった今、今度は選挙という挑戦をすることになったわけです。普通に子どもをもって育ててという人たちもいるなかで、どうして自分の人生は闘うことの連続なんだろうと思いますね。「私も、子どもをもって育てるという人生を味わいたかったなあ」という気持ちは今もありますが、「まぁ、しょうがないね。こういう人生なんだわ」と今は思っています。

 私と同じような思いや経験を抱えた同世代の女性、たくさんいると思うんですよね。仕事は非正規、子どもをもつのは夢のまた夢、みたいな。もし、それで将来が不安だったり、今が孤独だったりしている女性がいたら、「一人じゃないよ。あなたの声を聞かせて」と言いたい。

—お話を聞いていると、私も女同士で助け合った思い出や、逆に何となく気まずくなってしまった人たちの顔を思い出します。

大椿ゆうこ 最初から女たちに対抗心があるわけじゃないと思うんです。社会の側から女に向けて、いろんな競争を仕掛けられている感じがします。結婚したらしたで、しなかったらしなかったで、いろいろな現実があります。子どもを生むか生まないか。あるいは生めなかったのか、生まなかったのか。そこにもさまざまな事情や悩みや葛藤があるでしょう。「どちらがしんどいか」を比べるのではなく、しんどさの根っこにある共通点や原因を知りたい。できれば支え合いたい。

 最近、時々、友人の2歳になる子どもを預かっています。正確に言えば、私のつれあいが、保育園まで迎えに行って、親が迎えに来るまでの時間一緒に過ごしているんですけど。私も早めに帰宅した日は、その子と一緒に過ごしています。こんな形で、子育てに関われるんだなとうれしく思っています。

 日本の社会は、子育てしている女性たちにとりわけ厳しい、子どもを育てにくい社会です。たとえば子どもが保育園に入れなくて仕事を辞めなければならなかったり。一方、生まなきゃ生まないで文句言われる。どんな生き方をしても八方ふさがりな女たち。そのうえさらに女同士で争う必要なんてないですよね。

 どんな生き方をしても、せざるを得なかったとしても、ひとりひとりが尊重される社会をみんなでつくっていきたい。まずは私たち自身が、分断しようとするものに乗らず、つながっていきましょう。
「女子力」は、男に気を使うことでも、居酒屋で率先してサラダを取り分けられることでもありません。「女子力」は「団結力」だと思っています。

聞き手:社納葉子(しゃのう ようこ)
フリーライター。結婚、妊娠出産、離婚を通じて女性の「生きづらさ」「分断」を身を以て知る。子どもに対する自分の「加害性」も。循環して互いの加害を支え合う構造を柔らかい思考で変えられないかと実験中。飲み歩きと観劇が大好き。
大椿ゆうこインタビュー
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