大椿ゆうこインタビュー 第4回「労働運動のこと」

大椿ゆうこ インタビュー

第4回 労働運動のこと

「雇い止め解雇」の非情さを忘れない

正規雇用で安心して働き続けたかった

—現在、大椿さんは労働運動を活動の中心に置かれています。そのきっかけは何だったのですか?

 自分自身が有期雇用の末に雇い止めとなった経験からです。私が大学を卒業した1996年、すでにバブルは崩壊し、新卒採用は超氷河期でした。私はさまざまな仕事をしながら生活していました。ただ、すべて非正規雇用です。

 バブルのころにはじまった「フリーター」という言葉がすでに市民権を得ていた時代でした。「縛られない自由な働き方」「新しい雇用形態」「自分探しのつなぎ」として「フリーター」は位置づけられていました。私は女性問題にかかわる仕事に就きたいと思っていましたが、そんな仕事はほとんどなく、就職先が見つからないまま卒業しました。それからはさまざまな非正規労働に携わりつつ、少しでもいい仕事が見つかるように、社会福祉士や保育士の資格を取りました。最初は「自分探し」だったかもしれません。しかし、次第に非正規労働から抜け出せなくなっていきました。

大椿ゆうこ

 2006年、障害のある学生への就学支援制度を立ち上げた、兵庫県西宮市の関西学院大学に「障がい学生支援コーディネーター」として採用されました。障害のある学生が、他の学生たちと同様に授業に参加し、学べる環境を整えるという仕事です。

 契約内容は、「1年ごとの更新で上限4年の有期雇用」。期限付き契約職員と呼ばれていました。「また非正規雇用か」「4年後にはまた仕事を失うのか」という思いはありました。でも、大学で社会福祉を学び、以前も別の大学で同じような仕事をしていた自分としてはどうしてもやりたい仕事だった。そもそも全国的に見てもこの仕事の募集自体が少なかったし、募集があってもほとんどが有期雇用での採用だったのです。つまり、この仕事がしたいなら有期雇用という条件をのむしか選択肢がないという状況でした。

 業務立ち上げから関わったこともあり、仕事はやりがいがありました。ただ、常に「4年」という数字が脳裏にありましたね。職場は私ともう1人のコーディネーター、そしてアルバイト2人という構成で、全員が非正規雇用で女性でした。このまま働き続けたいという思いはみんな同じです。

 3年目を迎えたころ、私と同じような期限付き契約職員であっても、期限である4年後に嘱託職員に立場を変えて、同じ部署で継続雇用されているという事例を見聞きしました。仕事もようやく軌道に乗ってきた頃です。「私も働き続けたい」と強く思うようになり、直属の上司に相談しました。

 最初は上司も、私たちコーディネーターの継続雇用を望み、人事部に働きかけに行っていました。しかし数ヶ月後、「もう自分たちにやれることはない」「ここでイヤな思いをするより、他を探したほうがいい。推薦状は書く」と言ってきたのです。

 私たちが雇い止めになるまで残り1年もあるというのに、彼らは早々に「諦めろ」と言い放ったのです。「こんな頼りにならない上司を持ったのが私の不運だ」と絶望しました。でも、そうやって一生彼らを恨みながら生きるのは人生の無駄だと思った私は、即座に労働組合に相談に行くことを決意しました。事前にある友人に相談していて、「だったら労働組合に入って、団体交渉するのがいいね」と言ってくれたことを思い出したのです。

「あまたの闘いの上に勝利がある」
という実感

—相談に行ったのは関西学院大学の組合ですか?

 関西学院大学にも教職員組合はありましたが、非正規労働者の加入は認めていなかったのです。中には同情してくれる教職員もいましたが、正規と非正規には明確な線引きがあるのだということを思い知らされました。この時のことがあるので、非正規労働者が全労働者の4割にも達する今、非正規労働者を組織しない労働組合は、労働組合と名乗るべきではないと思っています。

 相談に乗ってくれていた友人のつてを頼り、「教育現場の労働者なら誰でも1人から入れる労働組合があるよ」と教えられました。それが、その後加入することになる大阪教育合同労働組合(以下、教育合同)でした。
 初めて相談に行った日、私は3時間も話を聞いてもらいました。そして、相談に乗ってくれた方が、「有期雇用をおかしいと思うあなたの直感は間違っていないよ」と言ってくれたのです。それまで私は、職場の上司や同僚、家族や友人からも「有期雇用だとわかったうえで就職したんだから、今さら文句を言うのはおかしい」「非正規の仕事を選んだのはあなたの自己責任」と言われ続けていたんですよね。だからその言葉に驚くとともに、心細い気持ちで歩いていた暗闇に灯りを見つけたような気持になりました。

 帰り際、その方は私にこう言いました。「大椿さんの時には勝てないかもしれない。でも次の人の時には勝てるかもしれない。それが労働運動だから」と。私、その言葉に胸をバキューンと射抜かれたんです。「かっこいい!」って。おかしいですか?おかしいかも知れません。普通の人は、「自分の時に勝てないのなら闘うだけ無駄だ」と思うでしょう。でも私、何を思ったか、その言葉で「やってみたい!闘いたい!」と思ったのです。

 それから1週間ほど悩んで、私は2009年2月に教育合同に加入し、大学側との団体交渉を始めました。
 大学側から数々の冷酷な言葉を浴びせられましたが、なかでも「有期雇用は自己責任」と言い放った常任理事の言葉は一生忘れることはないでしょう。大学が期間に定めのない雇用を用意していながら、私が有期雇用を選んだのであれば、「自己責任」と言われることも受け止めます。しかし、そもそも恒常的な業務であるにもかかわらず、有期雇用しか用意していないのは大学です。労働者が選択出来る余地はそこにはありません。大学は「有期雇用に合意したから応募したんだろう」とも言いました。「合意」という言葉に、いつもモヤモヤしていました。「合意出来ないなら他に行け」「合意した限りは文句を言うな」、そう言われているようでした。今すぐ仕事がほしいと切実な状況に追い込まれている非正規労働者の足元を見ているようで、その傲慢な態度に何度も怒りが頂点に達しました。
 働きながら闘った最後の1年間は、本当にしんどかった。隙を見せないように常にファイティングポーズを取っていなければなりません。人格も人相も悪くなっていくようで、自分が嫌になることもありました。

大椿ゆうこ

 2010年3月、私は予定通り雇い止め解雇となりました。私と入れ替わりに採用された2名のコーディネーターのうち1人は、一緒に働いてきたアルバイトの女性でした。大学は、彼女に合わせて募集条件も変更。最初から彼女を採用するつもりだったのです。4月から私の後任のコーディネーターに自分がなると分かりつつ、雇用継続を求めて大学とたたかっている私と一緒に働いていた彼女は、どんな心中だったんでしょう。同じ職場で働く非正規労働者の女性同士を分断するようなやり方に打ちのめされました。しかも、彼女も私と同じ上限4年の有期雇用です。いずれ必ず、私と同じ壁にぶち当たるんです。

 私が不当労働行為救済申立を行った大阪府労働委員会も中央労働委員会も、「4年間の有期雇用は従前からの方針であり、不当労働行為には当たらない」という命令を下し、全面棄却となりました。

 結果的に私の原職復帰は勝ち取れませんでした。それなら周りから言われたように、最初からあきらめて次の仕事を探したほうがよかったのか?私はそうは思いません。なぜなら、社会は少しずつ変わってきているからです。

 2013年4月に改正労働契約法が施行され、第18条に「5年間契約が更新されると無期雇用転換の申し入れができる」と定められました。上限4年の有期雇用だった私は、この法律でも救われる対象ではありません。それでも大きな前進であり、この法律によって多くの非正規労働者が雇い止めの不安から解放されるはずです。非正規労働者は、常に契約更新の不安に苛まれています。だからこそ、「賃金を上げてほしい」「休みをきちんと取らせてほしい」「パワハラをやめてほしい」、そんな当たり前の要求すら伝えるのが難しい。それを言ったがために「次年度の契約更新が行われなくなるかも?」と常に不安を抱えることになりますから。業務が継続してあるのに、担当する職員が有期雇用であることが、そもそもおかしい。雇用期間に定めがなくなるということは、この不安から解放されるということ。そして声ある労働者として一歩を踏み出せるということなんです。

 法律施行から5年目の昨年(2018年)4月には、多くの組合員が無期雇用転換の申し入れを行いました。そしてこの4月から実際に無期雇用になりました。ようやく、同一価値労働同一賃金を目指し交渉していくスタートラインに立ったという感じです。

 最近マスコミが、無期雇用転換問題をよく取り上げるようになりました。私立学校に勤めていた非常勤講師が、無期雇用転換の申し入れ直前に雇い止めを通告されたことなどが、テレビや新聞で報じられるのです。「期間満了」の一言で使い捨てられ、マスコミにも「よくある話」として取り上げられることもなかった10年前を思うと隔世の感があります。「あぁ、少しずつだけど、確実に社会は変わってきているのだな」と思います。
 ただ、法律はそこにあるだけでは私たちを守ってはくれません。使用者の方が一枚も二枚も上手ですから、常に彼らは脱法の道を探っています。私たち労働者は、常に自らの働き方、働かせられ方をチェックし、不当な扱いには抗議の声を上げ、自分たちの要求を伝える力がなくては、法律は守られないのです。

 初めて組合に相談に行った日の帰り際、「大椿さんの時には勝てないかもしれない。でも次の人の時には勝てるからもしれない。それが労働運動だから」と言われたと話しましたよね。最近、この言葉の意味がすごくよくわかるようになったんです。私は関学を雇い止め解雇になり、3年9ヵ月闘って、結局現場に復帰することは叶いませんでした。私は負けました。しかしその後も関学では外国人非常勤講師の雇い止め争議が4件ありましたが、全て私が団交して阻止しました。私自身は勝てなかったけれど、次の人は勝ち続けている。あぁ、これだったのかとわかりました。

大椿ゆうこ
「闘って負けていったあまたの労働者がいて、その先に勝利がやってくる」、そう思うんです。私は闘って負けた1人です。でも、その先に誰かの勝利があるなら、私の負けは無駄じゃなかった。未来の勝利を導くための必要なプロセスだった、そこにつながっているんだと思えます。負けたからこそ見えたもの、負けたからこそ与えられた強さがあると思います。このことをぜひ伝えたいし、1人でも多くの労働者に実感してほしい。労働運動の土台は労働者ひとりひとりの闘いが築いているのです。

聞き手:社納葉子(しゃのう ようこ)
フリーライター。結婚、妊娠出産、離婚を通じて女性の「生きづらさ」「分断」を身を以て知る。子どもに対する自分の「加害性」も。循環して互いの加害を支え合う構造を柔らかい思考で変えられないかと実験中。飲み歩きと観劇が大好き。
大椿ゆうこインタビュー
第5回 労働運動が教えてくれた
「変わるのは私たち、変えるのも私たち」 を読む
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